名東区なごやかクラブ連合会 名古屋市名東区上社二丁目50番地
 名東区役所 福祉部 福祉課 内
  TEL(052)778-3099
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★エッセイ  (令和4年度)


タイトルクリックすればエッセイが見られます

北一社学区  
名東区史による昭和の思い出 宮地 賢二
   
前山学区  
焼畑耕作を体験して 石田 藤幸
昭和の社会見学     森下 俊勝
   
平和が丘学区  
平成の想い出 河村 庫夫
   
豊が丘学区  
平成の思い出 岡本 稔子
   
貴船学区  
昭和の思い出 坂野由美子
   
蓬来学区  
我が家の貴重な出来事 岩佐 良男
孫に語るじじばばの戦争体験 若林 孝之
   
香流学区  
香流川と公害 柴田 邦彦
昭和の思い出(台風) 竹内 勝彦
伊勢湾台風記 自宅篇 安福 勇夫
   
猪高学区  
鑑真和上の足跡の点描 吉田 英治
   
高針学区
平成の想い出 安藤  登
私と卓球 加藤  誓
昭和「旅」の思い出 武田 一郎
初めての一人旅と電話 武田 敬子
祈りの千羽鶴 田村久美子
   
名東学区  
ごみ箱に捨てたシャープペンシル 横山 一郎
名東区史による昭和の思い出

高社クラブ 宮地賢二

 明治4年天皇の廃藩置県の命により尾張国が愛知県となった。
当地は尾張氏が治めていたので尾張になったとされる。
愛知の由来は「年魚市潟」(あゆちがた)のあゆちが愛智⇒愛知に、湧き出る意「アユ」から湧水が豊かな土地、又は東風を「あゆ」と読むことから、めでたいものをもたらす風の意。
参考までに岐阜県は織田信長が美濃攻略後稲葉山城を岐阜城と改めた。「岐」は中国の周の文王が渭水(いすい)のほとり岐山に立って天下を鎮め平定したことに因んだものとされ、また、「阜」は孔子の生誕地曲阜(まがりふ)から採ったとされる。
その後明治11年に郡制が施行された。
また同年、一色村と下社村が合併一社村となる。この社の語源は、古事記日本書紀によるとこの地は作物を作るための水不足が激しく飢饉に見舞われて困っていた。
作物の出来は98%前後を平年作、75%前後を不作、50%前後を凶作、25%以下は飢饉という。
そこへ都の武将で政治家でもあり日本を最初に平定した竹内宿祢(たけうちすくね)という孝元天皇の子孫である偉い人が通りがかりこの窮状を救うため一本の白い鷹の羽根で作った白い矢をまっすぐ立ててお祈りしたところ白い矢が金色に光って水があふれ出たという。
矢白(社)神社は水の神即ち五穀豊穣の神とされる。現在の矢白神社は京都の貴船神社のカッコ良さに惹かれ、名称を貴船神社と変えている。
明治39年、高社村と猪子石村が合併、猪高村となる。昭和30年名古屋市に合併、千種区となり村から町へと変化していく。
これを契機に各地で区画整理事業が次々と進み、村から町へと大きく変革していく。
その当時はため池と称される池が160程あった。それらの中から現存する池は、
1646年に尾張藩の郡奉行勝野太郎左衛門良政が私財を投げうって造った牧野ケ池である。この池により新田開発が進み石高は大いにアップして地元の人は大いに潤った。現在は名東区内には数か所の池が残っている程度で当時の面影は薄い。 
昭和50年名東区誕生、全国でも最も住み易い所となっている。 

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焼畑耕作を体験して

なごやか松寿クラブ 石田 藤幸

 昭和36年、私は単身ここ東海地方に就職、結婚し、マイホームも昭和の時代に実現出来た。この間の思い出も数多く有るのだが、私にはそれ以前の子供の頃の思い出の方が、今も脳裏にはっきりと残って居る。
 昭和20年代のこと、戦後の国土復興に向けて、山間地では杉やヒノキの植林が進められていた。
私の故郷もその中の一つだったと思う。
ここ五木の子守歌で知られる熊本県五木村、村内でも最も山間地の下梶原地区、私はこの地で生まれ育った。大きな赤松の古木が校庭に一本そびえたつ村立下梶原分校を、私が昭和33年に卒業する迄の思い出です。
見たり聞いたり体験したあれからは、もうすでに70年前後。戸数20程の一軒家ばかり、電気も無く道路も通ってなかった。何処に出掛けるにも、まず山道を歩く日常、買物も店の有る所迄は片道13キロも有り、一日がかりだった。
 代々この地域は焼畑耕作での生活、主な収穫物は稗(ひえ)、ソバ、小豆、芋類など、
一年の殆どが畑仕事だった。従って当時の子供の畑仕事の手伝いは当り前、収穫出来る迄の焼畑は、多くの手間がかかり、雑木林を切り開いて整地する、地元では「地ごしらえ」と言っていた。1年後に畑にする為の「こば焼き」をして始めて畑に成る。
 最初の1年目にソバを植え、2年目は稗、3年目に豆類、4年目芋類と、4年間で畑としての役目は終りとなっていた。
そんな生活の中にも自然の恵みは豊富で、
山菜や天然ヤマメ、猪肉などよく食べていた。四季を通して、自然の山河に囲まれて、ところどころに建つ茅葺(かやぶき)の屋根や合掌造り、土間と囲炉裏のある家が殆ど、時々、たき火の煙が山肌を這うように上って行く景色は、もう今ではどこにも見られない絶景だった。
又、鳥獣や昆虫類の鳴声がうるさい程、見方を変えて言えば、それだけ食物連鎖も好循環に保たれていた時代であったと、はるか昔の思い出です。

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昭和の社会見学

なごやか松寿クラブ 森下 俊勝

堀川の水面はブツブツと泡立ち、泥臭い悪臭が辺りに立ち込めていた。
 納屋橋は人通りも多く、名古屋祭りの夜は花電車を見る沢山の人で賑わった。
 この界隈は狭い路地が縦横に入り組んで、映画館、ホテル、商店等が軒を並べ、怪しげな構えの店もあった。
 昼間の人影はまばらだがネオンの灯る頃、勤め帰りの人たちが仕事の疲れを癒すのか馴染みの店に集まってきた。
 勤め先は、間口十間程度、奥行きが裏の路地まで抜けていて奥行きのある、昔風の商家で、この路地の一角を占めていた。
 日が落ちる頃、この軒先に人を待つ女の姿をみかけるようになった。
 勤めて初めての休暇だった。
先輩に連れ出されて、納屋橋の袂にある小さな飲み屋に行った。狭い建物の薄暗い階段を地下へ降り、二等兵と書いた古びた木製のドアを恐る恐る開くと、怪しげな明かりの中に厚化粧の年増の女が3人いた。1人は和服姿で物腰も柔らかい振舞から女将だとわかった。
あとの2人は体形がくっきりと見え限界まで切れ上がったタイトスーツで身を包み、物珍しそうにじっとこちらを見つめ、近づいてきた。思わず先輩の後ろへ身をよけた。
その春高校を卒業したばかりの私には、そうすることが精一杯だった。
 当時二等兵物語という映画がヒットしていた。上官に命令された二等兵が電信柱にしがみついて蝉の鳴き真似をするシーンがあり、その姿が自分とダブった。
 それから間もなくして、中村遊郭へ連れていかれた。御殿のような建物が道路の両側に建ち並びその美しさに見とれた。しかし夕暮れ時の遊郭は、なぜか、昔の浮世絵で見たような、優雅な賑わいはなく、灯りはまばらで人影もなく閑散としていた。
入社して数か月が過ぎ、得意先回りも慣れ仕事も忙しくなり会社に帰ってきたのは夜の10時頃だった。ところが女はまだ軒先にいた。「待ち人来ないの、もう帰ったら」と思わず声をかけた。女は首を横に振り、身の上話を始めた。田舎から出て来て失敗を重ねた末に、辿り着いたのが遊女だった。ところが前の年、赤線地帯が廃止となり遊郭が閉鎖されたため行き場を失い、この場所で客待ちをしていると明かした。
昭和31年、日本が先進国の仲間入りをするため売春防止法が成立、猶予期間を経て、昭和33年に赤線地帯が廃止となった。
中村遊郭が閑散としていた理由も、女がここに居る訳も分かった。
 このような胸の内を明かされ、同じ田舎者で海辺育ちの私は、泳ぎは得意だが、都会の海に溺れないように頑張ろうと決心した。

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平成の想い出

平和が丘第一クラブ 河村 庫夫

私の平成時代はランニングに明け暮れたと云っても過言ではない。
 今から30年ほど前に職場の同僚が昼休みに職場周辺を走っているのを見て、自分も付き合っているうちにランニングの面白さを実感し、勤務時間終了後も走ることを始め、どんどんのめりこんでしまった。
そのうちに人事異動で職場が変わったが、新職場でも続けていると、同行する同僚も 
でき、楽しくなってきた。 
休日は自宅近くにある公園で走り込んだ。公園では1年を通して季節の移り変わりを実感しつつ、飽きることなく続けることができた。それまでは早春になると花粉症に悩まされていたが、それもいつしか解消されてしまった。ここでもランニング仲間ができ、いつしかランニング大会に参加する気運が盛り上がってきた。最初のうちは愛知県内の近くの都市で開催される
大会に日帰りで参加していたが、だんだんとエスカレートして、県外へ遠征するようになった。当然のことながら、遠方へ出かけるとなると日帰りは難しい。一泊遠征や会場によっては二泊とか三泊が必要なこともある。
こんなわけで、平成8年に福井県の美浜町で開催された「美浜・五木ひろしマラソン」に参加したのを皮切りに、足掛け15年目の平成22年4月に「とくしまマラソン」に参加して、全国47都道府県での走破を完了した。
 その間走友と同行して、遠征した大会が多く、その中に歴史好きなのが居て、全国を巡りつつ、その土地の有名記念館を見学したり、名所や旧跡などを駆け巡ってきた。お蔭でずい分と地理や地史に明るくなったと自負している。
むろん全国を駆け巡っているうちでも日常のトレーニングは欠かさず、県内外の大会にはずいぶんと参加している。令和時代になってからは高齢になったこともあり、大会参加はがっくりと減ってきた。
今では速歩で毎朝散歩しているほかにウォーキング大会などには参加している。

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平成の思い出

豊が丘第一元気会 岡本 稔子
  
昭和天皇が崩御、悲しみにつつまれる中、故小渕恵三さんの、テレビで色紙に書かれた次なる年号「平成」、平(たいら)かなるの説明に、響きがよく納得。過去の過ちを二度と繰り返さない約束事と受け止めた。振り返ると戦いはなくとも忘れ難い出来事が。
平成7年1月17日阪神淡路大震災、名古屋も揺れました。主人が東京出張で早起をしていたので、すぐテレビをつけると、目に飛び込んでくる画像は高速道路が崩れ落ち、火事が発生、家は崩壊、人々の悲鳴、地獄絵でした。余震が続き次々と古い家並が崩れ道路が裂け段差がつき歩くのもままならない光景を画面を通して知りました。新幹線は名古屋東京間のみ、ダイヤのみだれはあったが無事往復できた。
平成17年愛知青少年公園が3年の工事を経て、愛知万博会場となる。長女がフランス領のマリ・モーリタニア会場でスタッフとして働いていたので、助人になり、リニモは混むので便利な自転車で昼夜問わず通った思い出。
185日間、2千2百万余人がリニモ、乗用車で、一日何往復もしている知人も大勢いました。なつかしい、楽しい会場でした。今、又、ジブリパークとして人々を誘っています。
平成18年故棚橋体育部長の音頭取りで豊が丘GG部が3月に発足、老若男女、28名の会員となる。小学校のグラウンドで毎土曜日午後から練習、会員は入れ替わっているが現在24名、学区対抗戦では常に上位に、我チームを誇りに思う。身体の続くかぎりクラブ、ボールを離さない。
平成23年、「3.11東日本大震災」。
忘れもしない午後2時46分、バドミントン練習から帰ってテレビをつけると、これ又目に飛び込んできた地震。福島県いわき市生まれの私、血圧180に。めまいふらつきで、自分が自分でなくなり医者へ。不整脈。翌日名東ホスピタルへ。
一過性の診断であるが精神的に動揺。気になる
実家、電話不通、ニュースでは被害の大きさが次々入ってくる。
実家の様子がわかったのは2日後、母が居た2階は箪笥が折り重なり手のほどこしようがなく、未だ2階では寝られないとの、跡継の弟夫妻の報告、あの時の恐怖は死の旅路までと。私には想像を超える出来事だった。

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昭和の思い出

勢寿クラブ 坂野 由美子

いつの間にか時代が過ぎ、昭和も遠くになりつつあります。さて、昭和の思い出、いくつもあって何を語ればよいのでしょうか。
東京オリンピック、小学校6年生でした。
抜けるような青空と響き渡るトランペットの音色、近所の電気屋さんから借りたテレビでワクワクしながら友と見たものです。当時教室にテレビはなく、電気屋さんが貸して下さいました。
昭和45年の大阪万博、それはそれは、すごい人出で、月の石もほんの一瞬しか見る事ができませんでした。カシューナッツという食べ物を初めて知りました。肌の
黒いアフリカの方々と会話したのも初めてで、高校生の私は図々しく手を見せてもらったり、顔を触らせてもらったりしたものです。あの鮮やかなアフリカの衣装や真っ白な歯と笑顔も強く心に残っています。
 不幸な出来事も多々ありました。
三島由紀夫の自決や日航機墜落事故なども忘れられない事です。
 高度成長期の活気溢れる昭和の時代に、上を目指して青春期を送り、やがて大人になりました。山あり谷ありの人生を歩んできましたが、令和の今、齢70となり若い頃には想像もしなかった忘れ物の名人になりました。
平均寿命はどんどん延びて全てが電子化され益々置いてけぼりになりそうな不安な気持ちで日々を過ごしています。

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我が家の貴重な出来事

よもぎクラブ 岩佐 良男

ゴルファーだったら一度はやってみたいのがホールインワンとエイジシュートだと思う。その確率3万回に1回といわれるホールインワンの奇跡がおきた。
平成3年11月3日Aカンツリー倶楽部の公式コンペティション「文化の日杯」でのこと。
16番ホールで打ったボールがグリーンの手前からラーンしてピンの方へ、そしてホールに吸い込まれた。
驚きと嬉しさで異常な精神状態になったのを覚えている。同伴競技者、キャディーさんから祝福された。
その当時、ホールインワンをすると内祝いの習慣があり頭をよぎった。オリジナルテレホンカードを作りゴルフ場のキャディー、職員、そして友人、知人の方々に配り、ゴルフ場では一躍私の名前が知れわたった。公式競技でのホールインワンなのでその記録をハウス内の壁面のパネルに名前が刻まれた。ゴルファーにとって最高の名誉だと思う私もついにその一人になった。
 我が家ではこのホールインワンが平成の幕開けだったと思う。
妻は私より四つ年下で体がよく動き行動力がある。現住所に移って52年余り、行政相談委員、国勢調査員、区の選挙管理委員、民生委員、少年補導委員など数々の仕事をさせていただいた。微力ながらその功績が認められ平成
28年に藍綬褒章、昨年11月に叙勲瑞宝単光章の栄誉にあずかり嬉しい限りだ。28年の受賞時は祝賀パーティをN観光ホテルで開催しお世話になった百名余りの方々から祝福をいただいた。東京で受賞式があり、その後皇居豊明殿において平成天皇陛下から祝辞を賜り、そのあと陛下は受賞者の整列のなかへ歩み寄られ代表の方に声をかけられた。私どものすぐ近くまでお出でになり緊張し拝謁できた。妻に同伴して貴重な体験をし一生の宝物になった。
 66歳で退任し、43年間続いた責任の呪縛から解放された時、晴れ晴れとした気分になったことを覚えている。
「責任」を負わないということはこんなにも、楽しいことかを実感している。
今では時間を忘れ庭いじり、パソコンが友達、そして病院も長い友達になっている。

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孫に語るじじばばの戦争体験

よもぎクラブ 若林 孝之

おじいちゃんが10歳、おばあちゃんが6歳の年、昭和16年に、日本はアメリカ・イギリス・オランダとの戦争を始めた。
12月8日の朝早く、ラジオから、開戦を伝える臨時ニュースが流れた。うわずったアナウンサーの声が、いま90歳を超えたおじいちゃんの耳には、まだ残っている。 
中国との戦争は、もっと以前、おじいちゃんの生まれた年、昭和6年に中国の東北部(満州)で始まっていた。「正式な戦争じゃないよ」ということで「満州事変」と呼ばれていた。

昭和12年には、中国本土での戦争が始まり「シナ事変」ということになったが、今の
呼び名なら「日中戦争」である。
国からの知らせで赤い紙の召集令状が届いた人は兵隊にさせられ、戦場へ送り出されることになる。
小学校の、ある先生に赤紙が届いた。そうなると皆で近くの駅まで送る習わしだった。
「ばんざい、ばんざい」の声を受けて、うなずく先生の表情は、まるで泣きべそをかいているみたいだった。
 毎月8日の日は、戦争が始まった特別な日として「日の丸弁当」(真ん中に梅干しが入った弁当)を食べることになっていた。
食べる前に、みんなで「いち汁いっ菜に皇恩を感謝し臣道実践の誠を尽くしましょう。頂きます」と言ってから食事を始めた。
 米粒を一粒でも残すと「お百姓さんに申し訳ない」と叱られた。
 戦争に必要だと金属製品が少なくなり、木や竹の代用品がふえていった。お寺の鐘や学校の二宮金次郎の銅像まで供出させられ消えていった。
 戦争は、始めは、みんな勝利に酔っていたのに、次第に形勢が悪くなっていった。退却や全滅の事を転進や玉砕と言い換える始末だった。空襲がひどくなって、町中に住んでいたおばあちゃんは、親元を離れ、三河のお寺で学校生活を送るようになった。
「集団疎開」である。
 昭和20年8月15日おじいちゃんは中学
校の校庭で、天皇の戦争終結の放送を聞いた。
暑い日盛りだった。
歴史の先生が「君たち、早まった事をするんじゃないよ」と言った。自分自身に言い聞かせているんだなと思った。
 灯火管制がなくなって明るい夜を迎え、
平和の有難さが身に染みた。

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香流川と公害(昭和の思い出)

山の手クラブ 柴田 邦彦
 
小学6年のころ(昭和32年)住まいの地は名古屋市千種区猪高町大字猪子石であった。
大字猪子石地区には香流川が東西約4kmにわたって流れている。
香流川は、昔から清流として有名な川であって、昔この地にあった造り酒屋ではこの川の水を醸造用水としていたといわれ、祭礼に参加する男衆は、まずこの川で口をすすぎ、体を清めた。それほどの清流であった。
当時の私は魚とりが大好きで、四つ手網で魚を獲った。大人もハヤを釣る人が多くいた。当時の大字猪子石は、農業地帯で水田に水を供給するため、川に堰が設けられ堰のところは水深1メートルほどもあり水泳にはもってこいであった。私は泳いだ。
ところが、ある日、川が汚れ始めた。
それまで透き通って川底の石が見えたのが、なにか不明であるが、茶色の海苔様のふわふわしたものが、川底を覆い、川底の石が見えなくなっていった。
そんな川に入って魚を獲ろうとしたが、そのふわふわで粘りのあるものが四つ手網に入って、網の目が詰まり、魚もいなかったが、とても魚とりはできなくなっていた。
私は、このふわふわしたものの原因をつきとめようと、中島橋からさかのぼった。
引山橋を越えたところで、堤防の中ほどのところにコンクリートの土管が突き出ており、そこから灰色の液体が流れていた。臭かった。それは工場の廃液であろうことが、いろいろ大人の人に聞いて分かった。
そこから上流は、それまで通りの清流であり、この灰色の液体が川を汚している、いや川を死なせたことが分かった。でも対策は思いつかなかった。その工場は、公害を糾弾されたのか分からないが、昭和50年代に廃止になり、それに伴い、香流川もきれいになり魚も戻った。
川をきれいにしたいという思いがありながら、傍観するのみで、自ら手を打たなかったこの時代の自分に、今この文章を書きながら、はずかしく思う。

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昭和の思い出(台風)

香流第三クラブ 竹内 勝彦

私が経験した大きな事柄について述べたいと思います。昭和28年9月25日に幡豆郡一色町に大きな被害を与えた台風13号がありました。
台風は、海に面した一色町の海岸堤防で4.5キロ、その内側を守る中堤防では2.7キロを寸断し、町域の8割が水で覆い尽くされてしまいました。
私が小学3年だったと記憶しておりますが、クラス委員をしていたこともあり、先生から現状を聞き、被害に遭った小学校も水につかり、生徒は学用品なども流され、困っているとのことで、文具など持ち見舞いに行くことになりました。
現地に行くには電車も不通となっており、特別に走らせてもらいました。その際、私に運転をしてみないかと運転手に言われ、少しの距離を運転させてもらいました。
訪ねる小学校近くの駅では、ボートが待っていてくれたので、乗船して小学校の教室に横付けに出来るようにしてもらい、無事見舞い品を渡すことが出来ました。⤴
 台風13号のことは、鮮明には記憶していないもののこのときの体験と、後の伊勢湾台風では名古屋港の埠頭に土嚢袋つくりに出掛けた体験から、台風の恐ろしさはわたしの昭和史に鮮明に刻まれていて、忘れないようにしています。

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伊勢湾台風記 自宅篇

山の手クラブ 安福 勇夫

昭和34年9月24日(土)18時過ぎ潮岬沖に達し、伊勢湾沿岸の愛知県と三重県に甚大な被害であったことから伊勢湾台風と名付けられた。
当時、私は会社に勤めていて、半ドンであったが台風の動向が気になり、しばらく様子見で居残っていた。気象情報は今ほど詳細でなく、もっと東寄りに行くだろうと自分達で判断して15時ごろ解散して帰宅した。
帰った家は、中川区尾頭橋で戦災をうけた跡に、昭和20年9月に造られたトタン葺き屋根・トタンで囲んだ11坪ほどの粗末なバラック建ての家屋(写真下)であった。
午後8時ごろ家族で食事をしていた時、土間側に座っていた私の後ろを突然米櫃が浮かんで流れてきて驚いた。これは台風の雨の影響で水嵩が増えると思い、家財等を高い所に移していた時に畳がぶかぶかと浮きだした。これは大変と少しでも助けようと皆で畳を上げ、床板の上に立てた。しかし、今度は床板が浮き出し、部屋の中を動き辛くなり作業が困難になってしまった。
今考えてみれば、そのようになるのは当然であるが咄嗟には考えが及ばなかった。
幸い床上浸水は30㎝位で治まり、午後10時頃には水位も20㎝位に下がり、外も歩ける状況になった。南へ100m程のところ(畑代町)に住替えのため建てた家と工場(こうば)(仕事場)があったので、水の中を歩いて避難することにした。ここは水の流れた跡はあるものの浸水は無かった。
しかし、夜中の12時頃に西風が強く吹き出し、工場の西側の戸口(車の出入り出来る大きさ)が風に煽られる恐れになったので、親父と兄貴と私が、重い物を置き、人力で押えて耐えた。午前2時頃には風も治まり、幸い家屋被害もなく、朝を迎える事が出来た。
 明るくなって、市電の尾頭橋電停付近を見て驚いた。電車道には外車や日本車、家屋の物が散在していた。浸水した水はどうしたものかと付近の人に聞けば、堀川の水が溢れたもので、一時的であったとのことでした。
この状況をカメラ(コニカⅢ型)で収めたが残念ながら家の前で水の中に落として再現できません。そんな時、会社から単車で伝令が来て、中部管内が台風で大変な状況になっているので、直ちに出勤して欲しいといわれ、そのまま会社に行き4日間家に帰らず勤務した。 

以上

*1 教訓:畳など決して助けようなどとしないこと。一旦泥水に浸かったものは乾かしても悪臭がして使い物にはならない。家の中での作業は畳の上を歩いた方が安全。
*2 バラック建て:関東大震災後粗末な小家屋をバラックと呼ぶようになった。
*3 半ドン:「半分」と「ドンタク」を合わせた造語。「半分ドンタク」の略で「半分の休日」を指す。週休二日制が導入される2002年頃まで会社・学校で採用されて
いた。

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鑑真和上の足跡の点描

猪高なごやかクラブ 吉田 英治

「どちらが創建当初のものか?」
それは高校時代、奈良の古寺を見学する会に参加したときのことです。先生が唐招提寺の屋根で輝く両脇の鴟尾(しび)を指差し、私達に問いかけました。この問いがなぜか脳裏から離れず私が「鑑真和上」に興味を持つきっかけとなりました。
その後、和上に対する理解を深めるために
唐招提寺には何度も足を運びました。
和上を納める御影堂襖絵には、遥か中国揚州の荘厳な風景や和上が東シナ海の波涛を乗り越え来日された様子が東山魁夷画伯の手で見事に描かれており坐像とともに素晴らしい空間を醸し出しております。その空間に身を置くと尊厳さを禁じえない気持ちになります。
また、仕事で訪中した際は中国各地の名所旧跡を見学する機会に恵まれ、和上が来日を決意した揚州の大明寺も訪れることができました。東山画伯の描く揚州の雰囲気そのままで深く心に染み入ったことを憶えています。
鹿児島の薩摩半島南端にある秋目浦にも足をのばしました。ここには和上が6度目の航海にしてようやく上陸できた地を示す記念の碑があります。秋目浦に降り立ち碑のある丘に立って南を見下ろすと、東シナ海が一望に広がっています。
その日の天候は穏やかな平穏な海でしたが、和上の視力や多くの随行者の命をも奪った凶暴な海でもあります。岬の上で当時の様子を想像しながら和上の意思の強さ、使命感
の強さに敬服させられました。
残念ながら和上は東大寺開眼供養法要には間に合いませんでしたが、聖武天皇が目指した僧侶への戒律を授戒させる任を無事果たされました。
また多数の文書を日本にもたらした功績は計り知れないものであります。※詳細は井上靖作、「天平の甍」(いらか)をお読みください。我々は、このような「鑑真和上の精神」を改めて評価し、今後の友好な日中関係の構築に活かしていくべきだと切に願います。

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平成の想い出

新喜会 安藤 登

私は上皇様と同年ですので、学生、サラリーマン時代は昭和で、平成初期に定年退職した為、平成はまさしく老後そのものと云えます。何をして毎日を過そうか不安定な時期で、講演会や趣味の集まりに参加している間に、名古屋市高年大学に入学しました。2年間45名の男女同数のクラスメイトとの交流が人生に大きく影響したと思います。
 卒業後も旅行、食事、講演会、謡曲、ゴルフ、趣味展等約15年続きました。
 そこで始めた水彩画を卒業後も続けようと思い、OBクラブに入会を申込んだ時、2名迄で満員と断られました。困って先生と交渉し、もう一つクラブを作ってもらい10数名で起ち上げ、その後、その先生はお亡くなりになりましたが、後任の先生に若返って、20数年経つ現在も続いています。
他方、前に断られたクラブは、髙校教師出身の先生を頼んだため、後輩が入らず自然消滅となっています。
何が、幸いになるかわかりません。
 同期出身者だけで構成するクラブは年数が経つとやはり人数減少で成り立たず、クラブ継続も先の見通しを考えないと問題だなあと感じます。
 趣味の絵の話が出ましたので、趣味の基となっている旅行では、老後でも60代70代は体力が元気なのと、世の中が安定していたので、国内、海外の旅行をよくしました。特に海外旅行の体験をしてみると、改めて外から観て生活、環境等日本の今迄気づかなかった良さや有難さが判ります。ヨーロッパはやはり異文化や景色で魅力あふれるところで各国それぞれ印象に残っています。それに比べると中国や東南アジアはやはり一歩見劣りを感じるのはいなめません。
 それを今は思い出して画くことで日々を楽しんでいます。最後はやはり名東区なごやか連合会の諸行事が大きな思い出で皆さんと一緒です。

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私と卓球

福寿会 加藤 誓(ちかい)

故郷の中津川市で昭和40年10月、岐阜国体の卓球の試合が始まった。大学4年生の時である。当時、全日本卓球ベテランの部で同市在中の林八郎氏が連続優勝していたことがこの片田舎での開催に結びついたのだ。
私は、中学から卓球を部活に選び、中津高校3年生の時はキャプテンを務めた。
当時は球拾いから始まり、先輩から素振りの型と左右の動き、そして「ツッツキ、ショート、ラリー」を教えてもらいそれらの繰り返しの練習である。サーブは自分で研究した。基礎体力を付けるため、長距離、神社の階段登り、うさぎ跳びに明け暮れた。
それでも成績はやっと地区予選を通過し県大会に出場出来る程度であった。
岐阜薬科大学に入学。同大学の卓球部は東海学連でも強く、優秀な先輩がいた。その指導のお蔭で「ループドライブ」を覚え「医歯薬大学の中での大会」では入賞、優勝することが出来た。

しかし、一般の大会では、東海学連でベスト16がやっとであり、この国体への出場は勿論無理で観覧席。
試合場には自慢の弟の優(まさる)がいた。優は岐阜県代表として団体入賞に貢献し、地元に錦を飾った。優は、前年の39年全国高等学校卓球選手権大会で、後の世界チャンピオンになった名電高校の長谷川に勝ち、3位となり「中国とのピンポン外交」のメンバーにも選ばれた。41年には、全日本卓球選手権大会のダブルスで優勝と、その後も活躍し、現在も「ラージボール」の部で頑張っているようだ。
私は、入社1年目の社内大会での優勝を最後に、その後殆どラケットを握っていない。
年に1回、大学の卓球部の同窓会で遊ぶ程度。ところで、私がこの大学にいた当時、卓球部の女子は、又、凄かったのである。
全日本学生卓球選手権大会で早稲田大学を破り、2年連続入賞しているのだ。女性に頭が上がらないのは、どうもこの時に染み付いたらしい。
「キャプテンは勝たなければならない」との思いが強く、オリンピックでの水谷隼選手の試合も自分の試合の時と重なり、怖くて楽しく見ることが出来ない。
私にとって卓球は「責務」であったのだ。
3年前、神戸に住む、中学1年生の孫たちが遊びに来てくれた。星ヶ丘で夕食後、ボーリング場に行った。孫も部活が卓球である。台を見付け卓球をすることになった。久しぶりにラケットを握り孫とのラリーを続けた。
「じぃじぃ、うまいねぇ!」 
卓球に打ち込んだ10年間の努力がこの一言で報われ、にんまりと微笑んだ。

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昭和「旅」の思い出

福寿会 武田 一郎

岡山県総社市に所在する母親の実家に行くには「神戸―岡山」は蒸気機関車の引く普通列車で4時間、「岡山―総社」は貨物と客車を一緒に繋いだ「貨客混合列車」で20kmを1時間、合計5時間でした。
列車は須磨を出発後、左手に「瀬戸内海」、右手に「一の谷」の松林沿いに走り、姫路を経て兵庫県と岡山県との県境にある三石トンネルに入ります。慌てて窓を閉め、煙が入るのを防いだものです。現在は新幹線「神戸―岡山」30分、「岡山―総社」40分で1時間10分です。確かに速く、便利になましたが、海沿いを走り、景色を見る旅の味わいがほとんどなくなりました。
ビジネスに於いても大きな変化が起こりました。例えば、新幹線が出来る前は神戸からの東京出張は1泊出張でしたが、新幹線の開通後は日帰り出張になり、朝6時新大阪発、夜12時前新大阪着となり、厳しいビジネス環境になりました。
速くなることのメリットはあるのですが、時間に追われ、1日8時間近く列車に乗っていたので、翌日の仕事に支障をきたしました。
現代社会は便利になりましたが、何時も時間に追われる様になり、旅の情緒がなくなるのは寂しい今日この頃です。

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初めての一人旅と電話

福寿会 武田 敬子

大雪のニュースが流れると、家に電話がなかった頃を思い出します。温暖な気候の高松に突然大雪が降ってバスが止まり、家に帰れなかったことがありました。困ってしまい、親に伝えてもらうため近所の知り合いに電話をして、伝言をお願いしたことがありました。
電話が繋がるまでは、東京の人に嫁いでいた姉との連絡も、すべて手紙でのやりとりでした。写真も手紙と一緒の封筒に入れて送ったり、送られたりしました。
 小包を送ってもいつ着くかわからない、のんびりした時代でもありました。
そんな時の一番の思い出は、生れて初めての一人旅でした。中学1年の夏休み東京の姉夫婦から遊びに来るようにと手紙をもらいました。旅費も洋服の生地も郵送してくれました。
ワンピースを仕立ててもらい、準備万端。
いよいよ当日、高松港から母と連絡船に乗り、宇野駅迄送ってもらい寝台列車の急行瀬戸の3等に乗り込みました。
母は見送って高松に帰ります。列車が出発しました。東京まで16時間。ワクワクから急に寂しくなりました。向かい合わせの4人掛けで直角の椅子、大人のおじさんが3人で、私は遠慮して座りました。翌朝6時30分に無事東京に着きました。降りてホームで待ってと言われていた。けれど、待てども、待てども、お姉さん夫婦は来てくれなかった。どれぐらい待っただろうか。迎えに来たお姉さん達を見たら号泣してしまいました。会えてうれしかったのに心細かったからかな。すぐ吉祥寺のアパートに連れて行ってくれました。浅草観音、東京宝塚劇場、上野動物園、井の頭公園、デパート等に連れていってくれました。1週間で帰りましたがとても楽しい毎日でした。連絡が直ぐに出来ない時代だから思い出が深まるのか、今でも忘れられません。
その後わが家にも黒のダイヤル式の電話が
来ました。家族一同大喜びでした。早速、東京の姉に、みんなで順番に、開通の喜びを話したことを思い出します。

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祈りの千羽鶴

福寿会 田村久美子

今から5年前のことになる。
 ある日、若い頃長きにわたり大変お世話になった方が、今、病床にあり余命半年の宣告を受けたと知人から電話があった。
 あの、お元気な方がと衝撃を受け、じっとしていられずに急いで伏せられている元にかけつけた。
あらゆる治療を受けられたようだが、目の前の小さくなった姿に愕然とした。
体力のない自分だが、以前の御恩をどうお返ししたら良いのか、考えあぐねた末に、年甲斐もないと言われても良い。自分に出来る事をと、千羽鶴を折ることにした。
一羽一羽、心を込めて・・・。
まず手始めに文具店に行き、一袋に百枚入りの折り紙を十個求め、暇をみては折る。ひたすら折る。それを傍で見ていた夫も、手伝うから折り方を教えてくれと言ってくれた。
だが、教える暇があったら、一羽でも多く折りたい。
 そんな、かたくなな自分の意志で始めたことだが、千羽という数は並大抵のことではないと、途中で投げ出したくなることも。
 部屋の中は折り鶴で溢れかえっている。
指も動きにくく果たして何羽折ったのか。
残った折り紙を数えてようやく数が分かった。あと何羽、あと何羽・・・。
 すべての折り紙が鶴の姿になった時の感動は今でも、はっきり覚えている。 
又、それからが一仕事。
千羽の鶴を、百羽ずつ数えながら、糸通しするのだ。 気の遠くなるようなこと。だが、誰に頼まれた訳でもない。自分で決めた恩人に対する一途な気持ちの表れ。
千羽の鶴も一人で折りあげた。
果たして枕元に飛ばせてくれるだろうか。
恐る恐るダンボ―ルに入れて看病されている方にお渡しした。
だが、残念なことに、心込めた千羽の鶴の力を持っても、神の元へと旅立たれた。
 今更悔やんでも仕方がない。御恩の思いの丈を折り鶴に託したと自負しているから。

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ごみ箱に捨てたシャープペンシル

なごやか名東 横山 一郎

 ゴミ箱に捨てたシャープペンシルが、また私の手元
に戻ってきた。
あれは、1970年代の北京。
私は、当時商社の北京駐在員として、北京の西長安街に面するホテルの一室で、本国との連絡業務に当たっていた。
当時は、文化大革命のいわば残渣がまだ残っていた時代で、党中央から一般市民に至るまで、「人民のために服務する」という公僕としての精神が横溢していた。
当時の日本は、経済成長真っただ中、サラリーマンの給与も、右肩上がり、年ごとに驚くほど増えていった。今から思えば、日本経済の輝かしい時代であった。
そんな時代にあって、私は日本と中国の間の輸出入業務に従事、毎日契約書類、見積もり書の作成、本国との連絡のための通信文の送受信業務に追われていた。
そんな時に使うシャープペンシルは消耗品であり、替え芯を取り換える時間も惜しいほどであり、数日に一度はシャープペンシルを耐用期限が来たとしてホテル自室のごみ箱に捨てていた。
ところが、ある日の夜なかに、私が机に向かってペンを走らせていると、部屋のドアをノックする音、ホテルの服務員(フロアーごとに客へのサービス業務に当たる職員)が立っていた。
若い男性。私が、なんの用かと尋ねると、「貴方の部屋のごみ箱に捨てられていたごみを回収したところ、シャープペンシルがあったので、お届けにきました」と言う。
私が「それは、捨てたものだ」と言うと「こんな良い品をなぜ捨てるのか?」と言う。
私は、彼の言葉に“もったいない”という日本人本来の心に接したような気がした。
あれから50余年、中国も大量消費社会に 変貌、物も使い捨ての状況にある。
中国についての報道に接する時、ごみ箱に捨てたシャープペンシルを届けてくれた中国人の一青年の言葉が懐かしい。

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