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人生の想い出
なごやか名東 加藤 守
永い人生を経てこの年齢となれば「人生の想い出」は、沢山あり一コマ、一コマが浮かびあがってくる。「夢か」で目がさめる経験もある。
サラリーマンにとって転勤は、人生の想い出の大きな1ページである。
慣れない土地での、新人生がスタートの想い出。 初の転勤先は、歴史の街金沢で単身生活がスタートした。緊張。歓迎会ではどうせ「3年もすれば帰る人」の声に反発。地元に溶け込み、北陸を知る事を目指した事。「それでー」の、北陸弁をよく口にして笑われた。
富山、福井も担当し、北陸3県の雪道を車で 走り廻った記憶は鮮やか。冬の稲妻も体験、バブル期を乗り越えて、厳寒にも慣れ温泉文化を楽しんだ。真黒な荒波の日本海を眺め、春の到来を待ち侘びる経験、山々の息吹く新緑は格別の想い出。夜の金沢は、華やかさと歴史文化の情緒を感じさせる街である。
次の転勤先は、大都市東京である。全てが大混雑の街、どんな行事も行列をなす街。経済パワーとスピードに、圧倒される街である。
毎日が忙しく過ぎ、満員電車で通勤し、終電に飛び乗る毎日。東京を起点に地方への出張が、精神の安らぎの一時であった想い出。
だが男であれば一度は、大都市東京で仕事をしたいが本音である。仕事のスケールが大きく、遣り甲斐を感ずる都市である。
次の転勤地大阪では、少しは余裕が出来、混雑にも、ラッシュも経験済み。夜の大阪、「喰い倒れの街」、楽しい街歩きも体験。夜のお誘いが楽しみ。大阪弁は苦手であるが、難波、心斎橋、梅田は街が楽しい想い出。
休日は梅田より京都、奈良、神戸を訪ね、四季折々の風情と行事にふれられた事が強く想い出として残っている。関西の風土が滲む土地柄は、印象深い想い出である。
今の時代と比べて、よき時代であった事、企業にもまだ余裕の時代、恵まれた環境で仕事が出来た事。幸せの想い出の時代。
今後も良き時代の到来を願うばかりである。
転勤先まで一緒し、家庭を守り、転勤生活を支えてくれた家内、家族には「感謝、感謝」です。
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炎天に見送る母の小さくなり
なごやか名東 横山 一郎
私が高校生まで過ごしたのは、郷里名古屋である。ただ、大学、就職先が東京であったため、18歳から定年退職まで、関東で暮らした。そのため、実家は、妹夫婦が母親と同居、母親の世話をすることになった。
盆暮れの休みに実家のある名古屋に戻ってくると、私は家族と共に、またUターンして、帰京することになる。
私の定年退職の年齢が見えてきたころ、母親の方は、90歳に手が届く年齢になっていた。ある年の夏に私一人が帰省したことがあった。数日実家で過ごして、帰京する日が
来た。真夏の昼下がり、私は、バス停に向かう。バス停まで見送ろうとする母に「外は暑い
から見送らなくていいよ」と遮って、百メートルほど離れたバス停に向かった。バスの発車時刻を調べてこなかったため、暫くバスの到着を待つ羽目になった。なんとそこへ、母が追っかけてきた。
「お母さん、暑いから、もう帰っていいよ」と何度言っても、「大丈夫」の一点張り。
そうこうするうちにバスが来た。
私は、バスに乗ると、最後尾の席からバス停に見送る母に「早く、家に帰ってよ」と合図をしても、バス停から離れない。バスは発車、バス停に残る母は、年追うごとにちいさくなっていたが、その母の姿はバスが遠ざかるにつれて、段々と小さくなって、豆粒大となり、そして視界から消えていった。
母親の世話を放棄した息子。
実家では妹夫婦との暮らし。娘婿との人間関係に問題もあったようで、申し訳ないという気持ちと、これも致し方ないという気持ちが交錯して、いつも別れがせつなかった。
母親は、ほどなくして、認知症を発症、車椅子の生活となった。
帰省した私に対して、もう特別の表情を示さなくなっていった。そして、ほどなくして母親は亡くなった。享年95歳。
毎年、夏になると思い出す。
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私の海外旅行
新喜会勝 安藤 登
私の海外旅行のきっかけは、会社規定で夫婦同伴でのハワイ招待旅行でした。
始めて飛行機にのり、味わったことのない外国の風土。それが忘れられず定年後、主に70代は毎年欧州・アジア各国を旅行しました。その中で特に印象に残っている事を想い出してみると、スイスで登山電車でマッターホルンをめざした時、終着駅で昭和の赤色郵便ポストが目につき、如何に日本人が多く来ているのか驚いたものでした。
帰路散歩道があり池にマッターホルンが逆さに写っていたのが印象的でした。
カナダでは氷河を身近に眺めそこ迄移動し、その解けた水を飲むと寿命が何年か延びると云われ、そのお陰で90才迄長生しているのかなと思います。
イタリアは何と云っても歴史のメッカであり、古代ローマと現代が混然一体と溶け込んでおり、映画ローマの休日で見覚えのある景色がよみ返ってきます。
ベネチアの運河をゴンドラに乗り、歌手がカンツオーネを唱うと両側の建物の窓から、住人が顔を出した風景が想い出されます。
亦楽しい事ばかりでなく、こんな出来事もありました。
中国では北京の土産物店で物色中、男性店員が寄って来て説明してくれるのを耳で聞き流して従兄弟と話合っていたら、突然店員が自分の説明を何故聞かぬのかと怒り出し「わるかった」とあやまり乍ら、日本では客に対して有り得ない光景だなと感じました。
万里の長城は古代人力でよくもこんな根気で気の長い工事をしたものだと時の権力者と中国人気質の一端を見た思いでした。
兎角国内では色々と味わえない体験をした事が今では楽しい想い出となり、行った事のある風景をテレビで観ると嬉しくなります。
そして当時の写真を参考に水彩画で楽しむ日々を送っております。
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妄想トレイン
福寿会 加藤 誓(ちかい)
JR西日本のローカル線が存廃で揺れていることを知り「存続のための提案」をしたく、
妄想の旅を企画した。
妄想トレイン「瑞風」は岡山から出発する。
まずは、岡山城と後楽園を観光し、吉備津神社に向い参拝。総社から妻の待つ倉敷の美観地区へ。再び伯備線を北上し高梁駅で下車し備中松山の城下町を散策する。「瑞風」は新見から姫新線で中国勝山へ。
本日の宿は天然の大露天風呂「砂湯」混浴で有名な湯原温泉「八景」。夕食は、「祭り寿司」と「千屋牛」。
翌朝は津山城下町の散策と「鉄道館」の見学。一路鳥取へ。ラクダで砂丘を廻った後、鳥取温泉の料亭で「松葉ガニ三昧」。店では「貝がら節」が流れていた。
2日目の泊まりは倉吉から送迎バスで三朝温泉「橋津屋別邸月代」。川のせせらぎを聴きながら眠りに就く。
次の日、用意された観光バスで米子駅から大山寺に登る。深秋真只中で、銀杏や紅葉が美しい。眼下には、弓ヶ浜と日本海、絶景であった。米子に戻り「ゲゲゲ」の境港へ。
隠岐の島への高速船が「しげさ節」を奏でながら出港して行った。恵比寿を祀る美保神社を参拝。今日の宿は皆生温泉「やど紫苑亭」。境港であがる白イカの刺身は絶品。
4日目は安来。観光バスで「足立美術館」
「安来節演芸館」を見学し、松江市へ。
ここで、長男が待っていた。家族3人は堀川遊覧船小泉八雲亭、武家屋敷を巡り国宝「松江城」を見学。大名茶人不昧公ゆかりのお菓子処で彩雲堂「若草」風流堂「山川」を買う。
宍道湖の嫁が島に沈む夕陽を見ながら「瑞風」はゆっくりと走る。
「神の湯」といわれる玉造温泉「佳翠苑皆美」の朝食は「鯉のあらい」としじみ汁。
因みに宍道湖七珍味は、スズキ、手長エビウナギ、ワカサギ、シラウオ、コイ、シジミである。
大国主命の出雲大社を「2礼4拍1礼」で参拝し、荒木屋で割子そば6枚2人前を食す。
山陰本線益田駅から山口線に入り森鴎外生誕の小京都、津和野に着く。
太鼓谷稲成神社、掘割の錦鯉、SLのD51を見学する。山口市湯田温泉「古希庵」の夕食は、勿論「ふく料理」である。酒は「獺祭大吟醸」。うまい!6日目はチャーターバスで、ススキの生い茂る秋吉台と秋芳洞を巡り、「瑞風」は、小郡から山陽本線で岩国へ。錦帯橋の他、広島の三次と同様に錦川の鵜飼が有名である。
広島県に入る。宮浜温泉、石亭泊。
料理は「穴子、牡蛎をはじめ瀬戸海の恵み」。
最終日は、世界遺産「嚴島神社」と「原爆ドーム」を見学。広島駅で長女が待っていた。
呉線経由で尾道へ。ロープ―ウェイで「千光寺」に上り、尾道水道、向島、尾道大橋を眺める。家族4人は観光列車「瑞風」の終着駅、お城に最も近い駅、福山駅にたどり着いた。
妄想トレインなので最高に贅沢な旅であったが、この旅は、昭和41年22歳で、岡山に赴任し7年後結婚、子供2人も生まれ、その後も中国地方を家族で転々と移り住んだ28年間の想い出の旅でもあるのだ。
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あぁ、上野動物園
福寿会 武田 敬子
昔のアルバムをたまたま開いたら、昭和50年頃、上野動物園へパンダを見に行った時の家族写真が出てきました。
長女5才、次女3才、おんぶひもで背中の三女10ヶ月の時です。
因みにカンカンとランランが日本に来たのは、昭和47年10月28日です。
上野動物園の貸しベビーカーに乗っている場面とか、色々なポーズの写真が何枚も出てきました。その時の旅行を思い出しました。
子供たちはもちろん私も初めての飛行機、YS-11に乗って、高松の林飛行場から羽田まで。当時は2時間もかかりました。
大きい音や振動があり狭い機内で、怖くて落ち着きませんでした。羽田に無事着き、ほっとしたことを思い出します。
飛行機を降りバスで移動しエアーターミナルに着き、モノレールで、浜松町に。この経験も初めてでした。それから、国鉄で東京駅へ。
中央線に乗り換え姉が待つ吉祥寺駅で降りました。
10か月の子は布おむつがいる時だったから大変な荷物。宅急便もなかったし、大きなボストンバッグ、今のようにコマが付いていないので重くて大変でした。
よく頑張ったなと思います。
あくる朝、国鉄に乗って上野動物園に行きました。
パンダ舎の周りはたくさんの見物人と係員がいて、ロープで仕切られたコースの長い列に並んで少しずつ前に進みました。
やっと順番が来たと思ったら係員が
「さあ~行って。行って!立ち止まらないで下さい。」の声でゆっくり見たかったのに後ろから押し出され、パンダの写真も撮ることが出来ませんでした。
でも本物のパンダを見たという嬉しさは最高でした。
この後、トラ、象、キリンなど、ほかのところはゆっくり見ることが出来ました。
姉の家族と皆で手作りお弁当を食べ上野動物園を後にしました。
2泊の旅でした。
子供たちにパンダを見せたくて頑張った旅行でしたが、先日娘たちに聞いてみました。
「その時のパンダ覚えている?」
娘たちは「覚えていない。」と。
証拠の写真を、今度見せる時まで大事にと、昔のアルバムを閉じました。
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二人のお婆さん
福寿会 田村 久美
ただいま! おなかすいた!
勢いよく、家の玄関の戸を開けたが、何だか、いつもと様子が違い、珍しく、母の弟にあたる叔父も来ていて、慌てた様子で母が言う。
父方の病弱な祖母が、又体調が悪く、今しがた医師が往診を終えて、帰ったばかりだと。
母も、まだ幼い妹や、床に伏した祖母の世話で忙しく、落ち着くまで、叔父さんと、母の実家に行って欲しいと、憐みの表情で話すが、幼い頃から、事ある度に預けられた経験を思い出し(心の中では喜び勇んで)渋々と「うん、いいよ」と、行く支度をし、叔父の車に乗った。
母の実家には、ひい婆ちゃんとお婆ちゃんがいて、大家族だが皆大人になり、たまに子供の私が行くと、とても喜んでくれた。
沢山のおやつや本等用意してくれ、全て我が物。その味を占めてからは、周りの大人達は不憫に思ったらしいが、その心配も何のその。
ひい婆ちゃんは、チリ紙に包んだ小遣いを、そっと帯の間から出し、渡してくれ、御歯黒の口元で、誰にも言うなよ、とニイと笑いながら言う。
しわくちゃの顔が子供心にも可愛いと思った。
暇があれば、小さく丸い背中をいっそう丸くしてこっくり、こっくり居眠りしていた。
この頃は、まだ元気で話好きだったが、87歳で天寿を全うしたと、結婚してから知った。
ひい婆ちゃんの嫁にあたるお婆ちゃんは、大柄で、健康そのもの。
初孫の私の面倒を良く見てくれ、甘い物好きを知り、「庭のまうりの、一番大きくて熟しているのを剥いてみた。どうだい、味は?」等、あれも、これもとテーブルに乗せる。
お風呂も、寝る時もいつも自分と一緒。
どんなに、嫁いだ娘の子供に怪我等ないようにと気を遣ったことだろう。
そんな、二代に渡る二人のお婆ちゃんの愛情を一身に受け、いつか、自分にもそのような未来があったら、 と、ほくそえんだ。
やがて、その日は、 やってきた。
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笛が人生を豊かにした
山の手クラブ 柴田邦彦
定年退職の翌日、今日はなにしようか、その翌日も今日はなにしようかとつぶやいていると、家内が、新聞に笛の教室が出ているから行ってはどうかと提案してくれた。ケーナという南アメリカの笛である。行くことにした。
週に一度1時間の稽古である。簡単ではなかった。
音が出るのに3ケ月かかると先生は涼しい顔。本当に3ケ月かかった。音が出るのに。
それから5年通った。
私の住む地域に昔は、笛太鼓の神楽があったことを聞いていたが、それを復活したいという人の話が伝わってきた。
先生に和の笛(篠笛)を教えてくれないかと頼むと、わしは世界中の笛をふける、まかしておけと、ケーナ30分篠笛30分の稽古で篠笛も修得した。そして、名東区の旧猪子石地域にある猪子石神社の祭礼の神楽を復活したいという方と連絡をとり、10人ほどで稽古を始めた。幸い、50年程前に神楽の楽譜が作られていた。私が、その楽譜を元に、おたまじゃくしの楽譜ではなく、笛の穴をいくつ押さえるかの楽譜を作って、皆さんに教えた。1年ほどで2曲演奏できるようになり祭礼で実際演奏した。けっこう様になっていて、村の祭りピーヒャラピーヒャラドンドンドンである。うれしかった。
私の勤め先(77才でも勤めている週2日)の半田市はお祭りが盛んであるが、その神楽に決して負けない出来栄えであると自負している。
もう10年ほどになるが、毎年9月第1土曜日の祭礼に、4曲の神楽を演奏している。
地域の神明社や盆踊りにも演奏している。
笛を通じて、それまで面識のなかった方々や幼なじみと交流が始まり、それまで知り合いが少なかった私ですが、多くの知り合いが出来た。
会社に勤めていれば、知り合いはたくさんいるが、定年後は知り合いが極端に少なくなるのが通例であるが、笛のおかげで、それは払拭された。ありがたいことです。人生が豊かになったと言っても過言ではないでしょう。
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若いころの旅の思い出
香流第三クラブ 竹内勝彦
学生を卒業して社会人になったころ、自分で稼いだ給料で友人と旅行に出かけた。
旅行社でコースを選んで計画するのが一般的であったが、私は行き当たりばったりの旅行を計画した。行先は山口県秋吉台・秋芳洞だ。名古屋駅から列車に乗って一路山口県湯田駅へ、着いたときはすでに午後4時を回っていたと思う。そこから旅館を探し始めたが、どこも満員で宿がない状況だった。
原因は、国体が終了した当日、小さな温泉地は競技を終えた選手が明日名所を尋ねたのち帰路に着く予定とわかった。宿がすべて選手団で満員だった。その時間で他の地へ出向くには遅すぎるため、駅で途方に暮れていると、目の前に、大きな八百屋さんが目に入った。私は八百屋の店主に「今日宿泊する宿が満員で困っている。お宅の店で野菜等を配達しているところで、なんとか泊めていただける宿を出来たら紹介していただけないか」と頼み込んだ。そうすると、いろいろ電話をしていただき、最終的に一か所で一部屋が空いているとのことで無事宿が見つかった。早速お礼を言って、宿泊所に出掛けた。そこは男女のペアが泊まるホテルだった。ホテルの看板には布でかぶせネオンも消して分からなくしてあった。そのホテルにも選手が多く泊まっていた。
そのほかの旅では京都に出掛けた時には、修学旅行シーズンであったため、やはり旅館はほぼ満員だった。仕方なく、駐在所に駆け込み、大旅館の別館を紹介していただいた。
警察から紹介いただいたため、仲居さんにも相当気を遣わせてしまい私は恐縮してしま
った。
私の旅はこんな状況で、その後も行き当たりばったりの旅を多く経験した。
こうした旅も今になっては楽しい思い出の1ページとなって記憶に残っている。
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家に小犬がやってきた時の想い出
明徳会 名東区文教台 岩槻明芳
私の家には二人の男の子供がいました。
40年ほど前、瀬戸市の西山町に住んでいたある年、この二人が私に「小犬が電信柱にくさりでしばられ、ドッグフードが置いてあった」と言って、白く、ところどころに黒いぶちのはいったメスの小犬をつれてきました。子供二人は「お父さんこの小犬を家で飼ってもいい?」と言ってきたので、私は「あなた方は小犬の面倒をみないからダメ、電信柱にしばりつけてきなさい」と言いました。
しかし、この小犬は非常に可愛く、私を見てクンクン鼻をならし、必死にしがみついているようでした。そこで、子供二人に「必ず散歩につれて行くこと」を約束させて我が家で飼うことを許しました。
それはそれは可愛い小犬で鼻の先からお尻まで30㎝ぐらいで、子供二人共に学校から帰るとすぐに山の中に散歩につれて行きました。
名前も「コリ」とつけられ近所の子供達にも、もてたようです。
私もすぐに駐車場に犬小屋を作ってやりました。
私が自転車を押してオッチラオッチラと帰ってくると、家から100mぐらいの所でコリの吠える声が聞こえてくるのです。まさにお帰りなさい!と言っているようでした。
しかし、子供達が散歩につれて行ったのは1ケ月ぐらいかな、ついに散歩は、私の仕事になりました。キャンプやらハイキングやら常にコリは主役で、今想い出しても我が家の最も幸せな年月でした。あるキャンプに行った時には夜になっても戻らず、次の日のもう帰るころになってやっと戻ってきたこともあります。お前はどこに行っていたのだと聞いてもクンクンと言うだけで私にゴメンなさいと言っているようでした。また、知らない女性にもシッポをふりふり近より、頭をなでてもらったりして約10年ほど家族を楽しませ死去しました。その後、想い出多い瀬戸市から名古屋の名東区へ住まいを変えました。
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旅は道連れ
よもぎクラブ 若林孝之
「おとうさん日本人?」電話をかけ終えた隣席の乗客から声がかかった。
見ると学生風の東洋人。セントレア空港で離陸待ちの大韓航空機内のことであった。
「そう日本人、あなたは?」と尋ねると「ベトナム人よ」との返事が戻ってきた。
荷物を棚に収容しようと彼が席を立ち、シートの上に搭乗券が残されている。
私が座っている窓際の席を示すチケットである。
「今日は空席が多いので、空いている席ならどこでも自由に」と触れて回った添乗員の言葉で、窓際の席に座ると、ややあって姿を見せた彼が、私の隣に腰かけて電話をかけ始めた。普通なら「そこは僕の席なんですが」と声をかけそうなのに、そんな気配は全然なくやがて二人の間で会話が始まった。
コンビニで働いていたとかで、嬉しそうに給料袋を取り出す。「ソウルでは日本円でオーケー?」と私に確めニコニコ顔である。
私はベトナム関連の知識を総動員してお相手を勤める。世代が違うので戦争の話は避ける。
まして、日本軍の佛印進駐なんて話題が通用する筈はない。
彼は家族の写真を見せてくれる。
妹とおぼしき女性が美人だったので、そう言うと「お父さんもー」と語尾を引っ張る。
「好きねー」と続けたい所か。
彼の父親は57歳とか。じいさん呼ばわり、されなかっただけでも良しとするか。
「ベトナムへ帰るところ?」と聞くと、「ニュカン」と両腕を揃え前へ突き出す。
どうも入国管理法違反で本国送還らしい。
「日本人はどこでも親切。煙草も吸えた」と話す。
「僕の入れられた所、なんと言う?」と問われて「拘置所」と適当に答える。
「英語では?」問いが続く。
「ジエイルかプリズン」と答えると「お父さん、よく知ってるね」とお褒めに預かる。
会話がはずんでソウルが近づく。
着陸の光景は譲るべきかと「グッドラック」と握手して席を立つ。
旅は道連れ、楽しい相手であった。
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ホテルのカードキーに御用心!!
上社げんき会 三隅 鈴子
昨年10月、娘から「おれんじ列車に乗って食事をしたり砂むし温泉でゆっくりする旅行一緒に行く」と言うのです。勿論時間はたっぷりの老夫婦「行く」と返事をしました。
さて用意です。服はこれ、下着はこれ、現金も両替し、ペイペイにもチャージして準備万端いざ出発。
鹿児島空港に着き、名物のラーメンも食べ仙巌園のお庭で桜島の噴煙棚引く風景を見、空は青々と晴れています。楽しく喜びでいっぱいになりました。
それから場所を移動して「おれんじ列車」での食事です。
夕日の沈む海を見ながらの食事は贅沢な本当に贅沢な時間でした。美味しい美味しいと言ってホテルに帰って来ました。
ホテルに着いて「明日は指宿で砂むし温泉に入るからね、おやすみ」とへやの前でホテルマンから、カードキーを渡され「はい、はい」と返事をしてへやに入りました。
入った途端です。
真っ暗、えー!そして、わー!!と思って ドアを開けようとしても開きません。
どうなってるの?真っ暗な中ドアをガチャガチャ開きません。やっと思い出して、スマホから娘へ「ドアが開かない、へやも真っ暗で何も見えない」と娘は飛んで来て、ドアの外から「落ち着いて。ノブの近くに四角いものが有るから押して」「いやそんなものはない」「いや有るから」「ゆっくり探して」、そんな事をしていたら、やっと開きました。照明も点きました。
娘がへやに帰った途端、安心でベッドに座ってしまいました。
まったくドアの鍵は鍵穴に鍵を差し込むだけで良かった。カードキーでタッチする、差し込む。なんで?
そう旅なれない私のほろ苦い想い出でした。
だから、なお忘れられない九州旅行でした。
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旅の思い出 (あわてた出来事)
豊が丘第二元気会 市川 里美
カナダ旅行でオタワからバンクーバーへ、バンクーバーから名古屋までの帰路での事だった。途中何ヶ所かの飛行場に立ち寄り、その都度お客の乗降がある。最後の寄港地のカルガリーからバンクーバーへ向って飛び立つ時に、エンジンに鳥が飛び込んだ為、急遽飛行場に戻り修理となった。乗り合わせた乗客の中に日本人は私以外誰もいない。もちろんキャビンアテンダントも日本人ではない。
…私は一人旅…。
バンクーバーから名古屋までの乗り換えチケットの出発時刻は決まっている。ディスカウントチケットだから変更は無理。気持はあせるばかり。飛行場スタッフに「なおるまでにはどれ位時間かかりますか?
バンクーバーでの乗り継ぎフライトには間に合うでしょうか?」と聞くと、「修理してみなけりゃいつなおるなんて分らないよ!」と軽く言われてしまった。
確かにその通りだが、だいたいの予測とか、見通しとか言って欲しい。ますますあせってしまう。不安な気持のまま待機していると、突然、私の名前のアナウンスがあった。何事かと少々不安気に急いでカウンターへ行ってみると、「別便でバンクーバー行きに一つだけ空席があるので、それに乗って下さい。出発時刻が過ぎているのを待たせています。お急ぎ下さい!」との事だった。飛行機までの長い通路を走った、走った。ホッ。席に座りやれやれとひと息ついたら、貴重品は手に持っているが荷物は前の飛行機に積んだまま。どうなる?又あらたな不安。名古屋までの飛行機には日本人キャビンアテンダントが乗務していたのでその旨を聞くと、「修理が終り次第、そのまま予定通りフライトするので、お手元に届くのは一、二日遅れると思いますが、間違いなく届きます。」との返事。
2日後には無事届いた。
ヤレヤレ。思わぬハプニングでした。
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人生の想い出
豊が丘第一元気会 岡本稔子
「80歳で再び沖縄へ行こう」と約束した
5人組。15の春、高校入学でクラスの席順が前後する5人、行動を共にするようになる。
すぐ後ろのB子とは家族ぐるみで交流して60余年になる。小学校の教員を40年勤め上げ地域で趣味を満喫、民生委員を2期つとめ充実した日常を送っていた。同窓会では毎回
司会進行をつとめ、会場を盛り上げてくれた。
そんなB子、2年前から言動に違和感が、人の名前が出てこない。場所が不明になったと言って電話がくるようになった。単なる物忘れと思い答える。又同じことを口にするようになった。一番の驚きは自宅に帰るつもりでハンドルをにぎっていたが、気がついたら知らぬ場所、車の中で途方に暮れていたとき、散歩中の女性が不審に思い警察に、家人に連絡が行き、無事帰宅できたと報告あり。と同時に免許証返上したと。その後、音信不通、気になる私、8月末、いわき市在住のB子宅へ。
私をみて「どちらさま、見たことあるけど」と笑うのみ。名前、過去の出来事を話しても反応なし。60年の歳月苦楽を共にしてきたB子ではなかった。
帰名する電車の中、過去が甦ってきた。
最初に旅行した沖縄、5人組の一人が浦添市在住、すべてを受け入れてくれ、恩納村の観光スポット、糸満市の史跡隈無く見てまわったこと。青森の旅は、十和田湖畔の乙女の像の前で高村智恵子の「東京の空灰色の空」を合唱したこと。作家川端康成が修善寺近くの定宿で書き上げた「伊豆の踊子」その部屋に案内され一休みしたこと。金沢方面ではタクシーを利用、運転手に勧められて、松本清張が足で取材した小説「ゼロの焦点」の舞台となったヤセの断崖、傍によれない絶壁、印象強い。
金沢の漆器の店は、トイレまで金箔で落ち着いて入っていられないと皆で大笑い。平成5年は伊勢神宮遷宮の年、石曳に遭遇したこと。
そして、京都へ、寺めぐりを、清水寺、銀閣寺、永観堂のみかえり阿弥陀像にうっとり。
古都はいつでも人を迎え入れてくれる。
もう5人組で旅行することはない。
B子は私を憶えてないのだから。
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沖縄旅行の想い出と卓球
平和が丘第一クラブ 河村 庫夫
愛知万博が2005年に長久手町(現長久手市)で開催された。沖縄に住む学友が家族を連れてその見物にやって来た。久しぶりの再会で積もる話に、至福のひと時を過ごした。 当時私はマラソンに熱中しており、毎年12月に那覇マラソンが開催されるから、ぜひとも参加するよう強い勧誘を受けた。
その年の12月に那覇マラソンに参加するため、12月2日(金)に沖縄へ飛んだ。
空港に彼が出迎えてくれた。
彼は浦添市に住んでおり、彼の家へ行く前に沖縄料理の昼食をする。そのあと国際通りや首里城に立ち寄った。首里城は赤色を基調としたきらびやかな城で、内地のものとはずいぶんイメージが違う。彼の家では奥様が待っていてくれた。二階には空き部屋がありそこに居候することとし、その日の夕食は奥様の手料理で積もる話に花が咲いた。
翌日は南部の戦跡巡りに案内してくれた。
平和祈念公園では平和の礎(いしじ)があり戦没者2万人ほどの氏名が刻まれている。
隣接して摩文仁の丘があり、そのあたりの洞窟司令部で沖縄防衛軍の牛島満司令官が自決。日本軍の組織的抵抗が終わった。
その日は6月23日で、今では沖縄の公休日となっている。
続いて有名なひめゆりの塔へ向かう。
沖縄戦に駆り出された沖縄師範学校の女学生たちが最後に立てこもった洞窟である。
戦跡巡りは終わったが、実に感慨深いひと時だった。明るいうちに帰宅し、夕食を済まし明日の大会のために早めに就寝した。
明けて12月4日(日)はマラソン大会である。彼が大会会場の奥武山グランドへ送ってくれた。この大会は当時我が国最大のマラソン大会で、参加者は2万5千人ほどであったが、その後、東京マラソンが発足してこれが3万人を超し、日本最大の大会になった。更衣室で着替え、午前10時のスタートを待つ。そのうち昼花火が揚がった。
スタートである。
やがてゆっくりと進みだし、スタートラインをまたぐのに12分ほど要した。 しばらくは市街地の走行である。そのうちに郊外へ出て、砂糖キビ畑になってきた。
南風原(はえばる)とか東風平(こちんだ)など沖縄らしい地名の地域を過ぎて行く。
沖縄の南部に近づいてきた。このあたりにコースの中間点があり、そこで学友家族が待っていてくれた。応援を感謝しながら、一息入れてすぐに再スタート。
平和記念公園やひめゆりの塔などを過ぎて行く。今まで南へ向かっていたが、コースは
次第に北へ向かう。30キロ辺りを過ぎると さすがに疲れを感じ始めたが、沿道には私設の給水所が多くなり、食べ物などをふるまって応援してくれる。
気力を振り絞って頑張る。やがてゴール地点の奥武山グランドが見えてきた。
頑張ってゴールに飛び込んだ。ほぼ4時間30分ほど要したと記憶している。
学友家族が出迎えてくれた。
那覇マラソンは沿道の応援がものすごくてひっきりなしだった。これが我が国屈指のマラソン大会の所以だろう。しかも内地から6千人ものランナーが渡航し、宿泊するため、大きな観光産業となっているそうだ。
着替えをしてさっぱりし、彼のマイカーで家路に着く途中で食事休憩する。
彼の家へ早めについて、ゆったりと過ごす。夕食はレストランで細やかなパーティをしていただいた。
翌日は午後遅くの便で名古屋へ帰るため、沖縄の北部へ案内していただいた。
万座ビーチ、沖縄海洋博記念公園、サミット会場などである。その中にある美(ちゅ)ら海水族館は日本最大の水族館で、巨大なジンベエザメが見ものである。
午後に空港へ送っていただき、別れのコーヒータイムをして、中部空港行きの便に搭乗し、帰途に就いた。
彼にはずいぶんいろいろとお世話になった。
感謝の言葉もない。
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人生の想い出「目標と言う言葉」
なごやか松寿クラブ 石田 藤幸
80歳を過ぎて、我が人生を振り返れば、節目ごとに私を支えてくれた言葉がある。
学校で勉強する時も、社会人として就職する時も、又、趣味、スポーツを選択する時も。
この目標と言う言葉が私の道案内をしてくれていた。
数々の職業を経験、その度に多くの方々にお世話に成り乍ら、幸運な出来事や、偶然の巡り合わせによって、お陰様で友人知人に恵まれた事は、大変幸せな人生と思っております。
しかし、時として必ずしも幸運な事ばかりではなかった。子供の頃から病弱な私は、入院生活も数回経験した。働き盛りに自動車事故、また、56歳の時には、くも膜下出血で緊急入院、ここでも幸運な事に、8時間もの大手術だったにもかかわらず、後遺症が無く、すでに25年が過ぎた。
日々、喜怒哀楽を充分に経験出来て居る人生、時には我が故郷の山河を思いだし乍ら、難なく過ごせて居る事に幸せを感じて居る。
生まれ乍らにして、運、不運は避けられない人生、生まれた時代や場所、環境等々、思えば終戦から今日に至るまで、平穏無事の世代に生まれ育った私は、つくづく平和な時代の尊さを実感し、昨今の世界情勢を思う時、日本のみならず世界全体が永遠に続く平和な時代の実現を願うばかりです。
人生百年時代と言われる現在、私はすでに、80歳生き抜いている。「後の2割をどのように生きるか」なのであろう。やはり後半の2割の生き方も、「目標と趣味を持って生きる事」こそ大切な生き方だと思う。
私は98歳迄生き抜いた母の長寿を目標として、地域活動では仲間とカラオケを楽しみ、屋外では目標のグランド・ゴルフで、ホールインワンを狙って余生を楽しみたい。
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メモリアルデー
なごやか松寿クラブ 森下 俊勝
昭和42年10月1日、28歳で同郷の女性と結婚しました。
70歳の現役引退まで日々の仕事や生活に追われ、いつの間にか56年の歳月が流れました。
今は、3人の孫に恵まれ、上の男の子は高校3年生で来年大学受験、何事もわれ関せずといった感じ、その下は今年高校生、勉強よりスマホが大好きでジブリのキャラクター集めをしている女の子、末っ子は勉強も運動も自分が一番だと言ってのける男の子に育ちました。 家内との生活は、こんな孫の話しや、その日の出来事等を必ず話すようにしています。
買い物や所要等、出かける時は、いつも一緒に行動するように心がけています。
結婚を申し込んだ時、家のない人とは結婚しませんと宣言された時、途方に暮れました。
家もなく、金も無く、給料も少なく、何か打つ手はないかと考え抜いた末、銀行にはいっぱい金がある、銀行から融資をしてもらおうと考え付き、会社の経理に事情を打ち明けたところ、取引銀行を紹介してもらい融資を受けることが出来、家を建て、結婚にこぎつけました。ところが新婚旅行の費用がなくなり給料の前借をして伊豆箱根の一週間の旅を無事終えることが出来ました。
この話は家内には内緒にしていました。
その後、家内も私の勤め先の会社に経理として勤めるようになり、この話が経理の上司からバラされてしまいました。しかし家内はそれほど驚くこともなく、自分の貯金から新婚旅行の借金を全部清算してくれました。
私達は本当に運がよかった。時の内閣によって所得倍増計画が打ち出され、給料が倍増して2年足らずで銀行の借金を全額返済することができ、この土地もドンドン値上がりしました。
10月1日は私たちのメモリアルデーです。
新婚旅行の初日は土砂降りの豪雨に見舞われました。2回目の10月1日は私たちの大事なスーパーの開店日です。土砂降りの雨です。3回目は2店目のスーパーの開店日です。
2日間土砂降りの雨に見舞われ、2度あることは3度ある、諺の通りとなりました。
4度目のメモリアルデーはどんな日になるか、きっと良い日になりますように。
10月1日は結婚記念日です。
この日が来る度、私の人生はハンツキだったとぼやいています・・・
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人生は山登りなり
なごやか松寿クラブ 山口 啓三
平成14年に60歳で定年を迎え、さて、今後は、残業も休日出勤もない生活となるのでどのような人生を送るかと模索したのである。 子どもの頃生まれ故郷の岐阜県で、野山を駆け巡って来たことから、自然を友に生きようと心に決めたのである。
そこで、手はじめに愛知県内の東海自然歩道に挑戦したが自然歩道とはいうものの起伏が多く、猿投山などは当時の体力では青息吐息であった。
また熊野古道がブームになり、三重県側からいくつか挑戦したが、これも厳しい峠越えなどであった。しかし、自然とともに歩くなかで達成感・充実感を味わうことができ、更に多くの自然に触れたく思い、鈴鹿の山を目指し、最初に登ったのが鈴鹿の主峰御在所岳であった。なんとか登れるだろうとの甘い判断で単独挑戦したものの、疲労困憊により頂上目前でしばらく休憩し下山するという無謀登山であった。
その後周辺の山に登ったときには、疲れから下山道を外れ、山中をさまよい、日没近くにかろうじて下山するという危険に遭遇したこともあった。
この反省から「山を侮ってはいけない」ことが身に染みて、登山を続けるならば、本格的な勉強をしなくてはならないと痛感した。
このため日本山岳協会東海支部の登山教室で安全登山について学び、実践指導を受けたのである。
これによって訓練を重ね山の仲間は広がり登る山の標高も高め、70歳にして3千メートル級の北アルプスにも登ることができ、次はあの山この山と思いを巡らしていた。しかし、人生は甘くなかった。
75歳にして足の痛みを感じ、まさかの関節の疲労と診断され、以後登山を断念せざるを得なくなってしまった。
この15年間の登山経験から多くのことを得た。
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人生の想い出
高社クラブ 宮地賢二
歳月夢の如しと申しますが、名東区が誕生して、もうじき50年、地域の移り変わりは
めざましいものがある。
明治4年4月天皇の廃藩置県の命令により、ご当地は尾張国が愛知県となり、その後明治10年11月に郡制が施行され愛知県愛知郡となった。その後明治22年10月に市政が施行され、名古屋区が名古屋市となる。
明治39年5月高社村と猪子石村が合併、猪高村となる。 昭和30年4月猪高村は
名古屋市に合併、千種区となる。
特筆すべきは、なぜ東に西山があって、西に東山があるのか歴史をひも解くと謎が解ける。村から町へと変貌していく。
昭和50年2月名東区が誕生する。ところで、50年と言えば、織田信長が好んだ幸若舞、
今川義元との桶狭間の合戦の前に舞ったとされる。
「人間50年、下天のうちにくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を享け、滅せぬ者のあるべきや」この下天とは仏教の具舎論に人間の50年は四王天においては一日一夜に当たるとされる。
ところで、大リーガーの大谷翔平選手の人気の秘密はどこにあるか、彼は、目標達成ノートというものをつくっている。
野球選手なら当然打率3割、ホームラン何本打つ。ゴミを拾う。笑顔で接する。という項目がある。那辺に答がありそうだ。
今年正月元旦、おみくじを買ったら「神様にいくら徳を積んでもバチはあたらぬ」
この啓示を受け、我が人生の目標達成ノートは、社会奉仕しながら物事全てに前向き対応悔いなき人生を送りたい。
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