名東区なごやかクラブ連合会 名古屋市名東区上社二丁目50番地
 名東区役所 福祉部 福祉課 内
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★エッセイ  (令和6年度)


タイトルクリックすればエッセイが見られます

名東学区  
落語でまわった名東区 横山 一郎
   
高針学区   
名東と私 厚味 當子
名東と私 安藤 登
偶然が変えた退職後の人生 加藤 誓
文化の花咲く 田村 久美子 
   
香流学区  
名東区と私 柴田 邦彦
夕日に映える鉄塔 安福 勇夫
私と名東 𠮷田 徳雄
   
極楽学区  
私と名東 近藤 康男 
   
上社学区  
名東区上社に住んで 三隅 鈴子
   
豊が丘学区  
私と名東 岡本 稔子
 
前山学区  
名東区、再移住は余生の地 石田 藤幸
   
北一社学区  
私と名東 宮地 賢二
   
牧の原学区
私の名東の思い出 白川 淳子
落語でまわった名東区名東

なごやか名東 横山 一郎

落語でまわった名東区

15年前に定年退職をしたのを潮に、東京から45年ぶりにUターンし、親が残してくれた名東区の土地に家を建てた。
 幼少時を中村区で過ごし、大学、就職先は東京であったため、区制50周年の名東区の期間をほぼ”外地“で過ごしたことになる。従って、退職当初の頃は、名東区は地理不案内の状態だった。
 それが、この15年の間に、名東区19学区をほぼ“踏破”したことになる。
10年ほど前に、落語で地域に笑いをモット―に、名東区役所地域力推進室並びに名東区社会福祉協議会にイベントボランティア登録をした。
爾来10数年の間に、地域の自治会、老人会、デイサービスセンター等の依頼に基づき、それぞれの集まりに呼ばれて、落語を披露している。
名東区を中心に、この10数年の間に130箇所のイベントに赴いたことになる。
おかげで、最近では名東区の地理や行事などのことは大方解るようになった。
このため落語の”枕”にもこれを引用できるようになった。出演した会場の近くの地理などについて、話題にすると、観客の方が「この人は土地の人だ」と、すぐに受け入れて頂ける。
 落語のプロと比べたら、素人の私の技能レベルは、はるかに劣っているが、地域の話題を自然に出せるのが私の強みであると自負している。
 名東区は、今世代交代に伴う住宅状況が大きく変動している。核家族、単身世帯向けのマンションに加えて、高齢者福祉施設が立ち並び、地域の絆は稀薄になってきていると感じている。
 こんな中、私の「派遣落語」が、地域の絆を少しでもつなぎとめる一助になれば、幸いである。

西一社(東から撮影 S38年)

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名東区と私

新喜会 厚味 當子

 昭和46年「千種区猪高町大字と小字のある〇番地の〇番」に公営住宅から移り住む。
 小さなプレハブに家族4人がそれぞれの夢を抱いて。長男は高針小へ、長女は花園保育園へ通うことができた。 
 地元の家がまばらにあり、一帯は住宅整理中と聞く。周りは畑で裏山が小高く北へ続き東も林が続き、夜は真暗く北極星も小グマ座も天の川もくっきり見えて足助のふる里を思う。
裏山からの音や鳴き声に鳥か獣かと不安であった。
昼間は子供と山裾を歩き、見事なアケビを見つけたり、つくし、よもぎを摘んで食べたり、自然は豊かでした。
長男は、学校の友だちもでき、よく遊び靴もズボンも泥んこで、下の子も園で目にした「バレー教室」へ、自分から通い出し卒園しても続ける。
 そのm早く、名東区松井町○○番地になり住所から猪高が消えた。
 昭和51年頃は、自転車で本郷の新区役所まで行った記憶がする。
ある日、窓から降る雨を見ると、新しく東側に出来た道路が川になっている。驚きと不安で見ていると、小降りになると自然と引いていく、降り出すと不安ではあったが雨がやめば引くのも不思議であった。
その後側溝も整備されてバスも新しく通る。
バス停も梅森坂、大針、極楽から本郷へ。私の家の南側は新宿○丁目で星が丘から新宿バス停を経て東名古屋病院へのバスも増発される。
 今の大針、極楽方面が住宅地となり、東方面へも道路が急速に延びて、学校、病院、老人施設、スーパー等で満たされ、公園、緑地等も残されて、今思えば名東の発展と共に過ごした思いです。
さて、私事と言えば母子家庭になり私は生活のため働き続けて、二人の子は義務教育後奨学金制度で進学し、卒業後に自分から返済を終わり自活している。
今の私は85歳。ここが終の棲家になることでしょう。 残り少ない日々を大切に生きよう!


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名東区と私

新喜会 安藤 登

想い興せば今の住居に移ったのは、50数年前に家内の中学高校時代の親友が、高針出身なので牧野ケ池緑地へ家族で遊びに来た時の印象が影響したのかなと思います。
 たしかに当時、東山公園や星ヶ丘辺へ来ると空気が一変し、夜など星空がきれいに見えた様に感じました。
 長女が小学校へ入学するのに間に合う様に家を建てました。
 まだ梅森坂から本郷までの道路が無い時代で、裏山は雑木林で鶯が鳴くのが聞えて何と風流な場所かとおもわず聞きほれた事を想いだします。
 通勤や帰宅時にパブリカの空冷のエンジン音がよく聞こえると家内が言っていました。
 お正月など氏神様の高牟神社へ家族連で参拝に出かけた時、途中で近所の方と挨拶を交わした迄はよいが、今の方は何処の人かとよく家内にそっと聞いたものでした。
 月日が経って名東鯱友会時代には愛知万博が印象に残っています。
名東区は玄関になるからと上社、本郷辺のゴミの清掃に奉仕したものです。
催物はとても一日では匂いをかぐ程度で終りなので、パス券に切替え的を絞って通いました。
ワニの肉を食べたのが話の種になります。皇太子殿下(令和天皇)が大へんな人気でした。
亦何10台もの山車の勢揃いも壮観なものでした。外国の有名な音楽家の演奏も聞きに行きました。
トヨタのラッパ演奏のロボットも話題になりました。
 最近では、20数年続いている高針ライオン会(ゴルフの会:会員40数名)に九十路乍ら毎月参加をし、元気をもらっています。学区外からも参加で交流が広まります。
 振り返ってみれば私の人生で名東区住いが圧倒的に長く、その間大きな災害にも出合わず、平穏無事に過せた事には改めて感謝申し上げる次第です。幸運でした。


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偶然が変えた退職後の人生

福寿会 加藤 誓(ちかい)

「えっ!地元の人じゃないの?」福寿会の新規会員候補が驚いた様に私に尋ねた。
「えぇ、高針に住んで、今年で22年目ですよ。」「じゃぁ私の方が長く住んでいるんだ。ビックリ!」 
高針、特に字北島には「加藤」姓が多く、福寿会会員60名のうち加藤姓は17名を数える。地元の人と思うのは不思議ではない。
私は、岐阜県中津川市生まれで、広島、岡山などを28年間転々と移り、50歳から名古屋に住んだ引っ越し族である。
58歳の時、現在のマンションを購入し、偶然マンション管理組合の理事となったのが、その後の人生の変わり目となったのである。
翌年マンションの代表として町内会長を引き受けることになった。
引っ越し族のため住んでいる所について興味はなく、コミセンの存在すら知らないできた、町内会長である。
「地元のお祭りや棒の手のしきたり」についてしっかりと教えてくれたのは、加藤姓の方で同姓の縁で親しくして頂けたと思う。
これも偶然である。 
 後任の町内会長が見つからず、8年間ずるずると役を続ける結果となり、他の町内会長が2年毎代わるので、知らぬ間に北島町内会、高針学区の主(ぬし)的?存在となり、防災の委員など、色々な役目も廻ってきた。
地元のゴルフやグラウンド・ゴルフの同好会にも積極的に参加し、地域の喫茶店や酒処、カラオケスナックの常連客にもなり「あの人とあの人は親戚関係だが、仲が良くないよ。」とか、色んな情報まで耳に入るようになった。 
69歳の時、福寿会の会長をと言われた。
老人会の会長は、リーダーではなく高齢者を楽しませるボランティアの役と理解し引き受けることにした。
74歳の時、名東区なごやかクラブの文化部長を引き受けたのも同じ理由である。
お付き合いの知人友人が北島町内会から高針学区へ、そして名東区へと広がった。
58歳の時、名東区のお知り合いが0人だったのが、80歳の現在、200人以上となったのである。
偶然がなければ、無味乾燥の老後であっただろう。「地域とのお付き合いが、退職後の人生をこんなに楽しく変えてくれた!」
このことを新規会員候補に伝えたいのである。


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文化の花咲く

福寿会      田村 久美子

今年の2月、娘の誕生日を家族で祝った。
「あ~私も44歳になるのか~。」自分のケーキを頬張りながら、娘が仕方ないな~というふうに呟いた。「えっ、そんなになるの?いつまでも、何歳になっても、娘だから、まだ40歳位かな~なんて思っていたわ。」そんな、たわいのない会話に、一瞬にして様々な事が、思い返された。
 そうだった。確かに、娘が生後半年の時に引っ越して、名東区の住人になって、早や44年になる。
夫婦揃って共白髪という訳だ。
 最初は、環境の変化について行けず、毎日が、右往左往の連続だったが、ご近所様や、ママ友の方達に助けられ、何とか今日に至れたことは、大きな感謝の一言に尽きる。
 子供の成長と共に、周りには、次第に商業施設が増え、あるコミュニティセンターには大人の書道教室の生徒募集という広告もあり国内でも有名な書道家が講師らしい。
それを見た私は、真っ先に、行く‼という選択が、メラメラと頭に浮かび、3歳になったばかりの娘を、自転車の後部座席に座らせ、シッカリ摑まるのよと言い聞かせて走った。
そしていつの間にか、コミセンの受付嬢に予約を入れていた。
それからは、毎週1回のお稽古に、娘同伴を許可してもらい通った。
高熱に魘されるような日が1年近く続き、その頃は、若さと体力、集中力の極限であったかも知れないが、基礎をしっかりと学び、ある程度の和歌等を小筆で一通り表現出来るようになった時の喜びは、又格別な気がする。
と、時を同じくして、高針小学校の会議室で校長先生が講師になられ、古典文学の読書会が毎月2回の割合で催されていることにも誘いの声があり、互いに通じる古典の勉強にもなるのではと、仲間に入れて貰った。
 今でも、その時の会員さんや仲間の方達とは、人生の良き先輩として、長いお付き合いを続けさせていただいている。
 そして、それは自分にとって大切な、大きな財産として、いつまでも大事に残しておきたいと思う。
(先様も、そう思っていて下さっているなら尚更のこと嬉しいけど‥‥。)


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名東区と私

山の手クラブ    柴田 邦彦

私が生まれた所は愛知郡猪高村大字猪子石です。同じところに住んでいて、千種区猪高町大字猪子石、名東区山の手二丁目と変わりました。 
 でも私の故郷は大字猪子石で変わりません。
名東区山の手は今では住宅地で山や川、田畑はありませんが、私の頭の中の故郷は山と田畑と香流川の田舎なのです。
香流川の堤防に咲く花と、遊び、香流川の清流の魚を獲り、泳ぎ、木刀を振るって友達とチャンバラごっこ、木の枝にブランコを作って遊ぶ、あけびを採って食べる、地蜂を獲る、そんな遊びの思い出が頭をよぎります。
小学校は猪高村には一つ、猪高小学校しかなかった。学校まで1キロ半、集団登校の冬の朝、山の斜面の霜柱を踏みつぶして遊びながら登校した。
 当時は寒くなかった。子供のころは寒いというのは感じないのであろうか。
先日私の畑を眺めていた方と話す機会があった。
その方は名東区に住んでいるが、区画整理が終わった後に来られた方で、私がここは昔、私の田んぼでした、ここは今暗渠になっていますが、元は小川が流れていました、しじみも獲れました、そんな話をすると、びっくりされていました。
江戸時代に蓬来小学校のあたりに観音堂があって、その法印様が私のご先祖に、この石を持てるかと言われ、持てそうだったので、持ち上げようとしたら、上がらない、そこで法印様がもう一度持ってみよとおっしゃって、持つと軽々と持ち上げることができた。法印様は、その石を持って帰って米蔵の前におきなさい、元の重さになって蔵を守ってくれますよと、言われた。その石は今もあります。我が家の宝物です。そんな話をしました。昔の名東区を語れる人は少なくなっています、今がラストチャンスかもしれないので、昔の名東区を語る会をもうけたらどうかと思う次第です。


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夕日に映える鉄塔

山の手クラブ    安福 勇夫
 
当地への縁は、昭和44年北区上飯田南町の社宅に住んでいた時、向かいの人から名東区(当時:千種区猪高町)の土地を買いたいが、広いので半分買わないかとの話で下調べに出向いた。 西側に16m、南側に8mの大きな道路に面し、南向きでしかも大きな建物もなく、気に入ったので購入することにした。ただし、道路はどこも未舗装で車が通ると泥の跳ね方が半端でなかった。
                     (左)宮根台から新屋敷を望むS39年  (右)よもぎ台付近R6年
 当時も長福禅寺の近くを南東に送電線が通っており、土地整理組合から電力会社に建て替え要請が出されていて、その担当になったのが
名東区との関わりでした。
猪子石土地整理組合は昭和37年から事業を始めて,既設の送電線部分のみ残して整地され、2~3m位のお山に鉄塔が残っていました。 
昭和40年頃からバイパスを作り、鉄塔を撤去して本格的に整地事業が進みました。
 初めて調査するため長福禅寺へたどり着いて、昼食後、南側の小高い所から送電線を俯瞰したところ事業の規模に驚きました。
 ある時、宮根付近で雪に道がぬかるんで車が横滑り立ち往生、整地工事現場の主任から今、仏さんが掘り出されたよ、などの話が多々ありました。
 一社付近ではバイパスへ落雷で断線、既設の鉄塔近くまで土砂が掘削されて、土量が足るか沈下してないかと、再三現場確認した。
区画整理が進み新しい鉄塔の位置を決めるため、盛土部分が明確でなく苦労し、電線の高さは、線下でも家が建てられるように18m以上にした。
昭和42年工事が完成して、最初に眺めたところから夕日を受けて映える鉄塔見て感動しました。
昭和50年当地に家を建て、今も時に鉄塔を見ては苦労を思い出しています。
※昭和59年10月発刊「猪子石今昔」(名古屋市図書館所蔵)に執筆したが、誤記をしたのが、ずうっと気になっており、この場を借りて訂正します。 


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私と名東

山の手クラブ   𠮷田 徳雄

私は36年前に名古屋に赴任してきた。社宅は昭和区で山崎川の近くだったので、川沿いの季節の移ろいを感慨深く、犬の散歩をしたものです。
8年間、仕事柄市内一円営業活動を行っている中で、名古屋が気に入った。中でも名東区の印象がすこぶる良くて、終の棲家は名東区にしたいと妻に相談、「私も同じことを考えていたわ」と、そこから名東区内で住まいを探した。
 この名東区に魅了された理由はまず静かです。癒しの町だな!と感じ、それが決め手となった。
公園が充実していて、緑が多く住環境としては打って付けの地域だ。道路は広く渋滞がない、しかも市民というか区民というか、都会でありながら皆さん素朴な感じがして、最も気に入った点かもしれない。だって私は奈良県出身で、妻は石川県、2人とも田舎生まれの田舎育ち。偶然にも新築した住まいの隣の奥様が石川県出身、向いの奥様も同じ石川県出身、入居即ご近所とは打ち解けた。
 新居では満足感と充実感を味わっていたが、入居後3カ月で大阪転勤を命じられた。止む無く単身赴任となった。週末に帰宅し翌日大阪へ、この生活が16年続いた。
そして、退職して自宅に帰り、さあ〜これからどのように人生を送ろうか考えてみた。
 そこで思いついたのがボランティアで、早速社会福祉協議会へ行きボランティアをしたい旨申し込んだ。予想していたのは、社協から「このような依頼が来ているのでできますか」と問い合わせが来るだろうと勝手に思っていた。しかし「あなたはどのようなボランティアがしたいのか」との問いに、すかさず「高齢者施設でマジックを披露して楽しんで頂きたい」と答えた。
そこから今まで名東区を主として350回ほどマジックボランティアをさせて頂いた。
この地域の高齢者の方々に誠に微力ではありますが、貢献したいという思いが今まで私を支えてきたのだと思う。
これからも足が動く限り、この名東でボランティア活動を続けていきたいと決意を新たにした次第です。


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私と名東

ひふみよ会   近藤 康男

私と名東との関りは、新しいようで古い関係です。
現在は高針台ですが、旧名猪高村高針字小畑で母の在所です。物心が付いた頃からの記憶は鮮明に残っています。旧名高針東古谷の蓮教寺以東は、小高い山と雑木林・田畑各所にある池だけで、電気も近所に住む人も無く祖父母と叔父達だけでした。
昭和20年3月、出生地が強制疎開の対象になり、止むを得ず祖父母の家に居を移しました。  
当時は南部・北部に分校があり、 5年生から 丁田山山頂の赤い屋根の本校を目指し1里の道のりを通学しました。


中学3年で、一旦転居しました。父母は、退職後字小畑に居を移し、時折訪れても相変わらず住む人もまばらでした。
聞いた話では、旧猪高村も開発され一時は千種区に編入されたが人口増加に伴い独立して名古屋の東の玄関口「名東」と命名されたそうです。
昭和42年、勤務先の社宅が高針北島にあり名東区との縁の始まりです。
最初は、高針ソフトボールチームへの募集でした。全くの初心者だったが、心よく受け入れてくれ、公認審判員の資格も習得し、私の原点になりました。
当時、名東区各地で大規模な土地区画整理が行われ、現極楽学区も他地域と同様に、その様相を一変しました。
 昔、目白・ビンビン(黒スズメバチ)を追った雑木林も無くなり、ただ、広大な猪高緑地・山ノ神に鎮座する竜神様が其のままが何より。
昭和52年、現住所で誕生間もない極楽学区の一員になりました。体育指導員となり学区の盆踊り大会・地域の祭礼等々には、学区内のソフトボールメンバーの協力で。   
名東区区民大会・子ども会の大会は審判員として、新しく出来た名東リーグには、新チームを結成して参加、いい汗を流しました。
その後、消防団員・コミセン管理人と老人クラブ「高針台一二三会」の結成に参加。ソフトボールは、4年前に引退。
消防団員・コミセン管理人も退職。
一二三会もひふみよ会と名称も変わり、今は、カラオケ・マージャン・民生のおしゃべり会と数独を楽しんでいます。 
 もし、強制疎開で転居をしなければ・・・・。


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名東区上社に住んで

上社げんき会    三隅 鈴子

名東区上社に住んで、はや40年余り、生まれたのは徳島県、結婚して兵庫県、主人の転勤で岐阜県、愛知県と移り住みました。
 ここ名東区上社で子供達は大人になり、結婚をし、孫も生まれ、主人も定年を迎えました。
子供が小さい時は子供会の行事に参加してソフトボール大会、サマーキャンプ、ラジオ体操、秋にはお祭りのみこし作りと子供と共に成長し知人も増え、楽しく暮らしてきました。
今は夫婦2人で暮らしています。私は上社げんき会に入会し、バス旅行に出かけたり、講演会では先輩方のお話しを聞き、元気にがんばってらっしゃる姿を見て、私もそうありたいと思っています。
 主人とは共通の趣味のドラマを観て、「中村公園あたりで豊臣秀吉さんは生まれたみたい?」と知るや、お弁当片手に出かけ、清須会議は清州城でしたみたいと、これ又、出かけるという、日帰り歴史の旅を楽しんでいます。
誠に「コスパ」の良い土地に住めているのを知りました。
 まだまだ、あの方この方が住んでいた?活躍したであろう街々を訪ね歩きたいと思っています。
敬老パスとお弁当を持って。




神蔵寺より 上社を撮影S35年

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私と名東

豊が丘第一元気会    岡本 稔子

母が曰く「なんて長い住所、大字、字がついてて」それから1年、千種区から分区して名東区が昭和50年に誕生した。住所が短くなり新鮮でした。
東山公園から藤が丘方面に進むにつれ緑が豊かになる。平和公園、明徳公園、猪高緑地、牧の池緑地を散策すると、植物採集している方をよく見かける。楽しそうにシャッターを切っている方も。
10年前、帰路の地下鉄で、本山から乗り込んだ白髪の高齢の女性、私の隣りに座るとすぐ話しかけてきた。「私は八事から来たの、娘が藤が丘に住んでいるのでしかたなく来たんだけど、八事と人種が違うのよ」と。
どういうこと、人種は国単位で使う言葉、反論できなかった自分に腹をたてたことを今でも忘れられない。
区をより知るようになったのは、子の成長と共に、PTAのおばさんから地区の世話役、現在なごやかクラブの世話役として動いているお陰かも。
市16区なごやかクラブで、教養講座があるのは名東区だけと、長尾会長が誇らしげに語る。それもそのはず、49回目が開催されるのですから。
第1日目、9月3日、歴史に詳しい宮地氏を招いて名東区の成り立ちが、約300万年前は東海湖で幾度も隆起を繰り返し現在の地になったと。緑が多く、坂が多いのも納得。
今年の最後のイベント、第50回趣味の作品展、12月、18、19、20日、区役所講堂に各学区から集まった作品が所狭しと並べられる。  
洋服、和服、手芸、編物、工芸、書道、絵画、ちぎり絵、盆栽、写真、女性代表の作品、喫茶コーナーが設けられ、足を留めコーヒーを飲みながら談笑している観衆の満面の笑みを何組も見た。
八事の白髪の高齢の女性に名東区の歴史とすばらしい行動力を、聞かせてあげたい。
遅かりしです。


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名東区、再移住は余生の地

なごやか松寿クラブ  石田 藤幸

区制50周年記念行事が、各学区で開催されているこのタイミングに、名東区に在籍しておりますことを大へん誇りに思います。 
私は昭和39年、東京オリンピックの年に、名古屋の某大手企業に就職、自動車の生産ラインで勤務し、隔週の夜勤に残業と多忙な日々だったが、職場の上司先輩に恵まれ、更に寮生活でも多くの仲間に出会えて、喜怒哀楽をたくさん経験出来た期間でもありました。
念願の我家は、まだ空き地が多く点在していた地下鉄一社駅近く高社に、女房と娘2人の4人家族での新生活、休日のたびに近くを散歩しながら、食事等楽しんだ一社界隈が懐かしい。
毎年お盆の連休を利用して、名古屋インターからスタートする里帰りは、我家の年中行事だった。しかし、家庭も会社勤めも安定していたのですが、40代後半に体調があまり良くない時期があって、健康維持の目的でテニスを覚えた頃、
身体にムリをしていることに不安を感じていた。
加えて、すでに高齢の両親のことを思う気持ちから、テニスクラブの経営を考え始め、本気でこの計画に着手した。
この数年前に両親兄弟で協力してヤマメの養殖を手掛けて、成功している事も有り、私はU
ターンを決意した。
この時、女房は悩んだあげく苦渋の決断をし、私の故郷へついて行くとの決意。
しかし2人の娘にとってこれからの人生、名東区で学生時代を過した思い出が多いし、遊びに行くことは嬉しいが住むことはイヤだときっぱり‥。
予定通り計画を進め50歳で退職、平成4年
5月私財を投じて3面のテニスコートをオープン出来た。この時から親子別々の生活が始まって
20年を迎えた70歳の時、又、名東区に来て暮せば‥と。
この時、第2の故郷名東に再移住、空き地や狭い道路のイメージがない発展である。
今後益々発展が期待されるこの地で、好きな趣味、スポーツを楽しみ乍ら、余生を過ごしたい。

明徳公園から猪子石小学撮影S50年


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私と名東

高社クラブ   宮地 賢二

現在の名東区の地域は、約300万年前は東海湖という湖(南木曽〜松坂辺り
迄の広さ)の湖底であったが、その後浸食と隆起を繰り返し現在の地形になったと言われている。地盤は粘土質で固い。大和朝廷の時代には尾張と呼ばれていた。
尾張氏は地方の豪族でヤマトタケルが西征を終え東征に向かう時尾張の国造の祖である美夜愛比売(ミヤズヒメ)と婚姻することによって和を結び東征に向かったとされる。
また、織田信長の時代には、郷土の豪傑柴田勝家が活躍(尾張国社村の出自で6歳まで現在の名東区陸前町の明徳寺で育った)この地域は尾張東部の重要な防衛線上であり小幡城、藤森城、上社城、一色城、下社城、高針城等があり、小牧長久手の戦いの際に秀吉軍の攻撃によって消失した城もある。
明治4年4月天皇の廃藩置県の命により尾張の国が愛知県となった。明治10年11月郡制施行される。従ってご当地は愛知県愛知郡となった。明治22年、上社村、一社村、高針村が合併し高社村となる。又、同年藤森村、愛知郡猪子石
村、東春日井郡猪子石原村が合併し猪子石村となる。   
明治22年10月、市制施行名古屋区が名古屋市になる。シンボルマークは㊇で末広がり縁起が良いとされる。
その後明治39年両村が合併し猪高村となる。
昭和30年4月猪高村は名古屋市に合併、千種区に編入とともにのどかな田園風景が村から計画された町へと変遷していく。昭和37年頃始まった土地区画整理事業によって一変していく。昭和50年2月1日名東区誕生、今年度祝50周年、織田信長の好んだ敦盛「人間50年、下天のうちをくらぶれば夢まぼろしの如くなり、ひとたび生を受け滅せぬ者のあるべきか」下天とは仏教の倶舎論に人間50年は四王天においては一日一夜にあたるとされる。あっという間の50年。


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私の名東の思い出

おもとクラブ      白川 淳子

0数年前、京都から娘の住む名古屋で永住することになり、シルバー人材センターへも入会させて頂き、仕事も安定し、旅行をしたり、「おもとクラブ」に入会も出来ました。その会で作文に投稿したり、その中で友人もできました。
 今では傾聴の会に入り、デイサービス2ケ所へ
参加出来るようになり、今後の生きがいにもなって。自分も、高齢者になりましたが、先輩達に教えて頂き、成長したいと思います。


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エッセイ 令和5年度
「人生の想い出 旅行の想い出」


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